あー夏休み

 夏休みの魔法が消えた気がする。そんな年齢になってしまったようだ。もちろん、未だに心待ちにしているのは変わらないし、楽しみではあるんだけど、昔ほどの爆発力?はない気がする。

 いくつかの責任を果たし、数個の自分のやりたいことを片づければもう終わり、ってのは昔と同じ。普段いけない親族関係のタスクをこなし、自分で行きたい所を2-3か所周れたらいいほうで、すぐに夏季休暇は終わってしまう。昔は「やっぱり時間が足りない!全然足りない!」と心の奥底から雄たけびを上げていたけど、最近では「まあこんなもんか」とやや満足している自分に気づく。いや、満足しているわけではなく、「人間、満足することはない」ってことを知ってしまったのだろう。同じようで、意味は全く違う。

砂と太陽

すごーく前にも書いたと思うけど、サザンの曲の歌詞に

「砂混じりの茅ヶ崎・・・」

というのがあって、海が持つ不快感をすごく上手く表現しているなあ、と思うぐらいに海が苦手である。もちろん、泳げないこともマリンスポーツに興味がわかない要因でもあったと思う。だが、そんな僕が今ではサーフィンを楽しんでいる。きっかけは長男の親友一家に誘われたこと。もちろん最後まで抵抗したし、海の中で何かを踏んで、足裏に感じたことのない感触を味わったときや、車のマットの上に砂が落ちているところを見てしまうと、

「だから海って嫌なんだよ!」

と思う。それ以外にも、ありえない角度から海水に打ち付けられ、その際に鼻から海水が入ってきたり、腕がパンパンに疲れもう上がらなくなったり、海藻なのか分からないものが足に絡みついたりと、マイナスポイントもたくさんあるんだけど、フットサルが出来なくなるような怪我に繋がるものはなさそうだし(死ぬ可能性はあるけど。泳げないし)水の上をすべる感覚は気持ちいいのだ。

太陽が落ち始める夕方ごろ、疲れはててプカプカとボードで浮きながら、体力的に最後の一本かななんて思いながら空を見上げると、燃えるような赤とオレンジの間を白い雲が流れていて、それを青が包んでいる。モネでもシスレーでも、それこそ新海誠でも描けない風景がそこにある。砂浜に目を向けると子供たちが楽しそうに遊んでいる。一瞬、ここは本当に千葉か?現世か?と思ったりする。そういう瞬間があるんだよね。ジャリジャリは嫌だけど。

近況

最後に何を投稿したのか覚えていないのだが、久しぶりに覗いてみた所、なんだかやる気が出てきたので「投稿を再開してみたりしようかなあ」と思ったこの一瞬を逃さないために書き溜めようと思う。書かない間におそらく

・長男の小学校入学

・泳げないのにサーフィンを始める

・一家でコロナに感染

・ノブクリの発足(シャツを作ったり)

・かかと痛に苦しむ

などがあって、それぞれに書くことはあるのだが面倒なので、いつも通りに思いついたことを書いていこうかな。時間が取れないのは同じだし、生活に追われているのも同じだが、時折過去の記事を読んだりしていると当時の自分の考え方や表現方法、あり方をまた取り戻したいな、と思ったりする。というわけで、再開!かな?

岡村 康平 cloud funding shirt”you can count on me”

この度、フウガドールすみだの岡村康平選手のクラウドファンディング企画シャツをデザインさせていただきました。岡村選手が今シーズンをもって引退することを決めており、最後のシーズンの活動費をクラウドファンディングで募ることになったとのこと。で、賛同し参加してくれた人たちの名前を入れたプラシャツを作るという企画になり、僕に話が来たわけです。これは面白そうだ、とやらせていただきました。

岡村選手が所属してきたベルマーレと現在所属しているフウガの色を基調に、袖部分にクラウドファンディングに参加してくれた人たちの名前を入れさせていただきました。

デザインとしては、人と人のつながりを表現したつもり。背中にはYOU CAN COUNT ON MEのメッセージを配置。

今回のシャツをデザインするに当たって、このフレーズがピッタリだと思ったんだよね。何年経っても、岡村選手は参加してくれた人に会うたび、あ、この人あの時助けてくれたんだよなあ、と思い出すだろうと。ここら辺が面白いところで、 一度恩を受けたら、それを返すまで繋がりは続く。返した後も感謝の念が永遠に残る。 一度恩を受ける、施す、ことがずっとずっと続く関係を作る。これつて最高だな、と考えたんだよね。で、  背負うには最高のフレーズだな、と。  意味的には、当てにしていいからねとか、仲間だからな、とか、なんかあったらすぐに駆けつけるからな、困ったら言えよ、という意味もある。だから、背中に you can count on me が入ってるなんて、一度受けた恩はわすれないぞ、と、今回のテーマにピッタリで最高にクールだな、と。

出来上がり的にはさすがGAVIC。前回のSEEDS all stars FUTSAL CLUB PRATICE SHIRT “Be Neutral”に続き二枚目だから、今回はかなりスムーズにすすんだな。満足だ!

差別

 ジョージ・フロイド氏が警官に殺されたこの事件によって、差別や不平等に対する声があちこちから上がっている。故人の境遇や、今なお続く不幸の連鎖、アメリカ社会にしみ込んだ人種差別を憂い、これではいかん、改善しよう!と叫ぶ声である。「差別」という言葉が躍っている。こういう事って定期的にあって、今回もある程度時間がたったらほとぼりが冷め、10年後ぐらいに同じことになるんだろうなあ、と気づいてしまう自分がいて、この事実こそが一辛いなと思う。でも、一番怖いのは「差別はいけない。差別をしないようにしよう!」と声高に叫ぶ人たちである。

 こういう境遇に生まれた僕が一番最初に認識した社会の壁こそが「差別」である。それまでは自分も他の子供たちと同じで、違いに気づいていなかったんだけど、ある日突然自分の特異さに気づくのである。そしてこの「自分がみんなと違う」ということは一生変わらないことを悟ってしまう。これは子供の頃の僕にとってかなりの大きなショックで、人格形成の間違いなく大きく影響していると思う。それなりに悲しい、怖い思いもしたけど、今では特異であることが良かったなあとか、逆にまったく気にもしていない人もいるなあとか、意識すらいない人もいるな笑、と思ったりする。個人と個人の間において、国籍とか文化とか、考え方の違いやそれこそ肌の色の違いななんて軽くジャンプ出来るもので、どんな違いでも大した違いではない。僕はそう信じている、ではなくそう実感・体験している。でもこれが個人間ではなく、もっと大きな単位になってくると不思議と難しくなってくるんだよね。その難しさが今テレビごしに映るニュースなのかな。差別は常に隣にあり、永遠になくなることない。

 で、僕が「差別はいけない。差別をしないようにしよう!」と叫ぶ人たちに思うことは、そういうことを本気に思い、信じ、正しいことだと思いながら大きな声で叫んでいる人も「差別をしてしまうのかもしれない」ことを認識した方がいい、ということである。「差別ダメ!絶対ダメ!」と叫ぶより、「俺らだって差別をしてしまうかも知れない!気をつけよう!」と言ってほしいんだよね。正しい側に立って、俺だけは大丈夫と思いながら「差別ゼッタイダメ!」と叫ぶより、「本当に正しい側に立てているのだろうか」と考えた方がはるかに健全だと思うんだよね・・・。自分だけは大丈夫、と思っている奴ほど怖いからね・・。

というわけで、正しいことを叫ぶのって間違ってはいないんだけど、それはそれでちょっと怖いなあ、と思うのである。

誕生

 キャプテンの長男が本日産声を上げた。コロナウイルスばかりのニュースが躍る、なんとも言えない空気が流れているこのタイミングでの誕生は正直複雑なのかも知れないが、「いや、今だからこそ俺ら大人がしっかりしないといけないじゃん!」と叱咤されるというか、気合が入るというか、勇気が沸くニュースである。社会があーだこーだ、政府の対応がどうのこうの、なんて言ってないで日常を、生活を、家族・仲間、好きな人たちを守って世界をちゃんと回せよ!ということである。

 今までも何度も書いていると思うけど、僕のが価値観が変わった瞬間の一つに、イソノ家に杏ちゃんが生まれた時、というのがあるんだよね。その時本当に、

「いかん、世の中がちゃんと正しく回るようにしないといけないじゃん!」

と思ったんだよね笑。世の中を斜めに見て憂いたり、社会や政府に文句を並べるまえにお前ちゃんとしろよ!働いて遊んで健康で税金を払って、ってやらないとだめだよ!と気づいたのである。それからも仲間に次々と子供が生まれても、そしてやがて自分に順番が来た時もその想いはやはり同じで、今となっては正しいと確信を持っている。

 人によっては大変な時に生まれたね、なんていうかも知れないけど、この時だからこそ意味があるのだと思える。大変な思いは親にさんざんさせて笑、すくすくと育ってほしい。そして「そういえばあの時大変な時に生まれたよね~」なんて軽く思い出せる社会にしないといけない。

近況

 お久しぶりです。トランプが非常事態宣言を出した今これを書いている。トランプのこれは再選を狙ったアピールなのか、本当の危機なのか、いまいち判断がつかない。コロナウイルスのこの狂騒曲を僕は、「本当に起きていることがテレビを通じて倍になっている」的なとらえ方でいたけど、トム・ハンクスが感染したり、バルサが活動を中断させたりするニュースをきいて、いよいよ危機感を感じている。それでやっと危機感を感じるってなんだよ!と自分でも思うけど、同じ県の知らない人より遠いどこかの有名人が感染した!と言われた方が効くのである。不思議なものだけど、自分と同じ世界に住んでいる人が感染した場合よりも、自分と全く関係はないけどスターだったり、特権階級の人が感染した方がショックが大きいのである。守られていたり、周りから保護されている(であろう)人が感染した場合、「いよいよか」と思っちゃうんだよね。パニックを避けるのなら、そういう人がかかっても隠すと思うんだど、それも出来ないってことは・・・。と思うのである。笑

 とはいえ、もう片方では 

・別にこれじゃなくても高齢者だったら他で死ぬわ。

・インフルで年間何人死んでいると思っているんだ!

・感染者が1名増えた、発見された!というニュースに意味あるのか?

と思ったりする。もちろん、インフルと違って予防・治療方法が確立されていないことは怖くもあり、 その一点にこそ色んな判断が下されるわけだから、今日現在のような社会の在り方になるのもわかる。「良く分からない」こそ一番の恐怖だもんね・・。

結婚

 僕がフットサルを始めた時に出会い、かれこれ17年ぐらいの付き合いになる先輩のご子息が結婚した。ご子息とは時々一緒に蹴るぐらいの付き合いなのだが、なんとも言えない喜びを感じた。選択肢が多数ある今の時代のなかで決して楽な方を選ばず、自分の気持ちに従い決断を下した23歳の若者は最高にクールであり、未来を明るく照らす存在である。関係ないけど、こっちまで嬉しくなる。ご子息はナイスガイで一緒にいて楽しい男だし、ああいう若い奴がもっともっといたら日本の社会も明るいのに。本当に明るいニュース。おめでとうございます。

子供のため

 この前の連休を利用して少し遠出をしてきた。泊まったホテルが完全にハロウィン仕様になっていて、これがもはやディズニーレベル。装飾はもちろん、スタッフもコスプレをしていて、客もレンタル衣装をまとって世界観を作っていた。夜には子供が宝探しをしながら敷地内を冒険するイベントもあったり、メニューもハロウィンっぽいものになっていたり、完全に子供が楽しめる感じになっていた。どれも大人にも耐えられる完成度で非常に楽しかったんだけど、なんとなくこれでいいのか?とちょっと思ってしまった。

 僕が子供の頃は、世の中がここまで「子供むけ」だった感覚がないんだよね。大人主導というか、親の世界に子供が合わせる、という感じだったんじゃないかと思うんだよね・・。それがいいか悪いかは分からないけど、そういう時に大人の世界を覗き見る瞬間があって、それが面白かったのである。嫌々つれて行かれた旅に大人の世界を覗き見たその瞬間を今思い出したりするんだよね。子供向けって優しく聞こえるけど、ある意味色々奪っているんじゃないか?と思ったりする。

夏休み

休みに入る少し前から長男が熱を出していて、休みに入っても中々治らなかった。朝は問題ないのだが、夕方から少しずつ上がっていき、夜には40度近くまで上がる状態。病院に連れて行っても「夏風邪」の診断で、とにかく熱が下がるのを待つしかない、と。今まで熱を出したことは何度もあるのだが、食欲がなくなるのは初めてで心配だった。白馬に行くことを予定していたんだけど、全てをキャンセル。割と楽しみにしていたのだが、仕方がない。

 熱が治まってから、とりあえず養老渓谷でちょっと川遊びをして、勝浦で一泊。望んでいたものとは違ったが、まあ、これでいいかなあと。

 後半には甥っ子と姪っ子を引き連れて、総勢6人でチームラボ豊洲にお出かけ。お台場のは長男と二人で行ったことあったのだが、豊洲のは水をふんだんに使っており、靴を脱いで入るということを知って、これは子供が気に入るんじゃないかと。い案の定言うことを聞かないぐらいに興奮してしまう始末。非常にいい経験だった。終わってからみんなでBILLS。こっちはこっちで美味しかった。

 夏休み的には可も不可もない感じだったけど、何事もなく日常に戻れたことを考えるとこれはこれで良かったかな。