差別

 ジョージ・フロイド氏が警官に殺されたこの事件によって、差別や不平等に対する声があちこちから上がっている。故人の境遇や、今なお続く不幸の連鎖、アメリカ社会にしみ込んだ人種差別を憂い、これではいかん、改善しよう!と叫ぶ声である。「差別」という言葉が躍っている。こういう事って定期的にあって、今回もある程度時間がたったらほとぼりが冷め、10年後ぐらいに同じことになるんだろうなあ、と気づいてしまう自分がいて、この事実こそが一辛いなと思う。でも、一番怖いのは「差別はいけない。差別をしないようにしよう!」と声高に叫ぶ人たちである。

 こういう境遇に生まれた僕が一番最初に認識した社会の壁こそが「差別」である。それまでは自分も他の子供たちと同じで、違いに気づいていなかったんだけど、ある日突然自分の特異さに気づくのである。そしてこの「自分がみんなと違う」ということは一生変わらないことを悟ってしまう。これは子供の頃の僕にとってかなりの大きなショックで、人格形成の間違いなく大きく影響していると思う。それなりに悲しい、怖い思いもしたけど、今では特異であることが良かったなあとか、逆にまったく気にもしていない人もいるなあとか、意識すらいない人もいるな笑、と思ったりする。個人と個人の間において、国籍とか文化とか、考え方の違いやそれこそ肌の色の違いななんて軽くジャンプ出来るもので、どんな違いでも大した違いではない。僕はそう信じている、ではなくそう実感・体験している。でもこれが個人間ではなく、もっと大きな単位になってくると不思議と難しくなってくるんだよね。その難しさが今テレビごしに映るニュースなのかな。差別は常に隣にあり、永遠になくなることない。

 で、僕が「差別はいけない。差別をしないようにしよう!」と叫ぶ人たちに思うことは、そういうことを本気に思い、信じ、正しいことだと思いながら大きな声で叫んでいる人も「差別をしてしまうのかもしれない」ことを認識した方がいい、ということである。「差別ダメ!絶対ダメ!」と叫ぶより、「俺らだって差別をしてしまうかも知れない!気をつけよう!」と言ってほしいんだよね。正しい側に立って、俺だけは大丈夫と思いながら「差別ゼッタイダメ!」と叫ぶより、「本当に正しい側に立てているのだろうか」と考えた方がはるかに健全だと思うんだよね・・・。自分だけは大丈夫、と思っている奴ほど怖いからね・・。

というわけで、正しいことを叫ぶのって間違ってはいないんだけど、それはそれでちょっと怖いなあ、と思うのである。