最高の自分

 先月のセビでボスが怪我をした。僕が蹴った,、裏を狙った長いボールに全速力で追いつこうとした際に、筋肉がプチッと行ってしまったらしい。人数がぴったり10人だったこともあり気丈に最後までキーパーをやってくれたけど、終わってからの歩き方を見た限りではなかなか重そうだ。動き出してから一時間は経っていたからアップ不足でもなければ、体の状態も悪いわけでもなさそうだったから、運が悪かったのか、読めない筋肉トラブルの餌食になってしまった。

 ここからが不思議な所なんだけど、その時に「何もそこまで真面目に追わなくても」とか、「あそこで長いボールを蹴らなくてもよかったかなあ」という発想に、お互いに全く思考が及ばなかったことである。つまり、追いつくかどうか分からないボールでも走って当然だよね、と二人とも思っていたということになる。たかがおっさん達の緩い、遊びのフットサルでのたった一場面での出来事なんだけど、そこで最大限の自分を出そうとするその思考、姿勢に僕は、あえて言葉にすると「信頼」という気持ちを抱くんだよね。

 映画「クリード」の1シーンで、主人公のクリードが偉大な父親、アポロの試合をyoutubeで見るシーンがある。主人公はボクシングを愛しているのだが、きらびやかな世界で活躍した父親とは真逆で、自分は地下ボクシングで試合をこなしている。仕事では大成功をし裕福な生活を送っているのだが、心はボクシングにあった。そんな彼は父親の試合を見ながら立ち上がり、シャドーを始める。大画面に写された父親の映像に、一人寂しく動きをまねる主人公の姿が重なる。僕はこのシーンで毎回毎回涙が出そうになる。

・父親と同じレべルには届かないかも知れない

・そんな才能もないかもしれない

・そもそも意味がないのかも知れない

という第三者の価値観を別に、主人公はとにかくボクシングがしたいんだよね。世界一でなくてもいい、輝く世界でなくてもいい、そもそも意味なんてなくていい。どうしようもなくボクシングがしたいんだよね。

 この、クリードが立ちあがってシャドーを始めるシーンと、おじさんが届くか届かないか微妙なボールに向かってダッシュをするシーン、僕には同じように映るんだよね。こっちだって、その長いボールに追いついた所で何か大きな意味があるのか?という考え方も出来るんだけど、そもそもそこに走らなくてもいいか、という発想がない。体がかってに動くじゃないけど、自分に出来る最大限を出したい、そこに疑念の余地がない。その精神性が好きなんだよね。

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